山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

自分の映画歴語りその4/『非解釈』


それこそ、勃起したチンポをこすりつけて、思わずドッピュンしたような、そんなふうに作者としては感じている作品。だからあんまり積極的に上映しておりません。
neoneo坐のHPでのコメントで、今回(8ミリフィルム映画祭2010年秋)こんなことを書いた。
「犯人が「性欲をおさえきれずに」「ついかっとなってしまって」と言うような感じで、やむにやまれぬ衝動によってつくってしまった作品。2度とできない「腫れた想像力の産物」と言ってもいいかも。たぶん蓄膿症だったから、脳が腫れていたのだろう。プロレスラー前田日明は第一次UWFのときに蓄膿症の手術をしている。UWFがプロレスという表現に革命を起こしたのは、前田の脳が蓄膿症で腫れていたからであって、手術をしてしまったゆえに前田の輝きはそこで失われてしまったのだと思っている。」
蓄膿症によって脳が部分的に腫れていて、それが想像力にヘンな影響を与えるのかもしれないというのは、まるで根拠ない言い草だけれど、そうとでも言わないとこの頃の作品の説明がつかないようにも思う。
それにしても、よくぞまあ、わりと早い時期に「物語の呪縛」から離れられたものだ。
この『非解釈』をつくったあとから、同じようなヴァイオレンス指向の映画をつくる仲間たちとくっついていって、いっしょに上映会活動をするようになっていったわけだけれど、その仲間たちは物語(ストーリー)映画から離れることはできなかった。
いったい、何が原因だったのだろう?
そう思い返してみると、やはり佐々木昭一郎(『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』)作品とか、寺山修司作品の影響があったのではないかと思う。もちろん、実験映画も見ているし、新宿でやっていた佐藤重臣さんの上映会にも足を運んでいたわけだし、それらもろもろの影響なのでしょう。