自分の映画歴語りその6/『ゴーストタウンの朝』
『非解釈』をつくったあと、北大映研から飛び出した数人のグループと仲良くなった。「志を同じくするものが引き寄せ合った」という感じ。その「志」とは、大学のなかで「映画ごっこ」にうつつを抜かしているだけでなく、もっと外の世界へと打って出ようじゃないか、ということだった。
そこでやったことが、自分たちがつくった映画を持って、北海道内を巡回上映したのだった。
いま思うと、ちょっとヘンな思考様式だった。上昇志向があったのなら、文化の中心は今も昔も東京なのだから、自分たちのつくった映画を東京で上映して名を売るというのが王道だろう。しかしわれわれはそんなことは東京でやっている連中に任せておけばいい、自分たちは自分たちの足元である北海道の、札幌以外の都市を巡る、という考えだった。
それは自分たちが北海道以外からやってきた北大生だったからだろう。私が東京で、そのほか、のちに『爆・BACK』でPFF入選する森永憲彦は佐賀、あとは秋田、群馬、東京からやってきたやつらが主要メンバーだった。
その連中との関係は1年ほどで解消してしまう。べつにケンカしたわけでなく、なんとなくの流れ解散だった。
しかし自分はまだまだ先へと展開していきたかった。
そこで、新たにメンバーを集めて発足したのが、製作&上映グループ「映像通り魔」だった。
「映像通り魔」のメンバーは半分が北大生だったが、残りの半分は札幌のその他の私立大学生、専門学校生、さらには同年代だがもう働いている人もいた。
その旗揚げ作品としてつくったのが、前述の森永憲彦の『PATINKO』と、私の『ゴーストタウンの朝』だった。
私の「映画をつくるのにつかう脳内の想像力部分」が腫れていたのが、この作品まで。さしてホメられたことはないけれど「六月」という役のチンピラが、廃墟で暮らしていて、その寝たり起きたりする夢見の描写に、自分の最後の「腫れぐあい」があらわれてる。