山崎幹夫の各種センサー

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自分の映画歴語りその5/『海辺の記憶』


この作品はスルーしようかと思ったけれど、やはりそれでは格好がつかない。
見た人には強烈な印象を残しているだろう。添付画像のように、自分の手の甲をカッターでスッと切って、にじみ出してくる血をじっと撮っている映像と、ヴューワー再撮影での、海辺で男がべつの男の頭部を棒で殴っているショットが交互にあらわれる。それだけの4分の作品。
「究極的にシンプルなヴァイオレンス映画をつくろうと思ってつくったのだ」とかエラそうに書いたこともあるけれど、ちがう。わりと衝動的に撮った。
そもそも『非解釈』のなかに、いまは削除してしまったけれど、自分の手の甲を切るショットがあったのだった。
で、当時、『風たちの午後』という作品を上映してゲストで札幌に呼んだ矢崎仁司監督が、そのまま「新作のシナリオを書く」と言って札幌に居残っていたので、われわれ上映スタッフは自分の作品を見せたのだった。
矢崎さんは『非解釈』のそのシーンを見て「ダメだ。ためらっている。どうせならもっと豪快にザクザク切って、手の甲が血だらけになったらいい」と言った。
それで「それもそうだ」と思って衝動的に撮ったのだった。

もうひとつの「海辺での撲殺シーン」は、これは見た人があまりいないから気づかれていないけれど『ポプラ並木の憂鬱』のなかの1シーンから。
この男ふたりのやりとりがあって、そのうえでひとりの男が棒でもうひとりの男を叩く。
このとき、もちろん頭を叩かないように演出していた。なのに、手元が狂ってしまって、みごと側頭部に当たってしまったのだった。
それがあまりにおもしろかったので、何回も見ようと思って、ヴューワーで再撮影していたのだった。あのー、つまり、そもそもは個人的に笑うためにつくったシロモノなのですよ。
でも、手の甲を切るショットと交互につないでみると、なんともヴァイオレンスな感じになったのでした。

ところで、矢崎仁司さんの名を出したけれど、そんなふうに、当時は札幌で自分たちのものだけでなく、東京などの自主製作映画の上映も盛んにやっていた。
毎月、札幌の旭屋書店で「ぴあ」を買って、自主上映欄をチェックする。それで目立った上映をしている作品を、なんとか作者に連絡をつけて札幌で上映したのだった。
「飛行機代は出せませんが、列車で来るなら旅費は出します。あと、ワリカンでよければうまい魚介類喰わせる店で打ち上げしましょう」がお誘いの文句。
ほとんどの監督は来てくれましたね。やはり北海道は地の利がある。
困ったこともあって、やってきた監督、まだ若いこともあるのでしょう。
「うまい魚介類よりよぉ、おれ、トルコいきてえな。どこのトルコいったらいい?」
あ、トルコってのはいまのソープランドのことね。これは困った。「北海道産の大麻が欲しい」なら簡単なのだったけれど、トルコ(=ソープ)はたしかに札幌名物ではあるけれど、われわれ自主製作関係者に聞かれても、誰もくわしくない(呼び込みのバイトならしたことあるけど、が関の山)。
まあ、ともかくそんな感じで、北海道の地で、単独で『海辺の記憶』のような表現にたどりついたわけではないことはここで明記しておこう。
なんだかんだで盛り上がり、なんだかんだで作家どうし交流して「これはすごい」とか「これはクズだ」と語りあい、発熱する場ってのは、やはり必要だと思う。生まれてくるものの大半はたいしたことがないものであったとしても、作品がたくさん生まれ、作家どうしがあれこれと言い合う環境が摩擦熱みたいなものを生む。そこからこれまでにないような表現が産み落とされる、映画に限らずそんな気がする。
思い切り脱線しちゃいましたね。
あ、脱線ついでにもうひとつ。
手の甲を切るというのは衝撃的でしょうけれど、当時の日本映画マニアだった私たちは、酔っぱらうと腕に傷をつけて(瓶ビールのフタとかで)血をにじませて、その腕を組み合って、おたがいの血をすすり「兄弟(きょーでー)になったぜぇ」とか言っていたもんです。
70年代です。日本映画マニアにとってはヤクザ映画と日活ロマンポルノに入れこんでいた時代なわけですよ。
われわれもニセ広島弁でまくしたてていた(あー恥ずかし)時代なわけですよ。
それと、エイズ問題前夜だったのね。だから互いの血をすすり合うことに何の抵抗もなかったわけ。
で、いろんな人を血を啜りあって兄弟(きょーでー)になったけれど、私、エイズには罹患してません。
けっこうエッチに関しては倫理的だったのかもね。(脱線しまくり)