山田勇男その1/腫れた想像力『スバルの夜』
ではひさびさに作家論に戻りましょう。
自分の作品の上映で何回か「腫れた想像力の産物」というフレーズを使ってきた。私の作品で言えば『非解釈』から『ゴーストタウンの朝』までの、初期の作品の上映でそのフレーズを使った。しかし、これは私の作品より、よほど山田勇男さんの『スバルの夜』にふさわしい惹句(キャッチフレーズ)だと思ってる。
そして、商業映画と、自主製作映画のちがいを決定づける重要な要素であるとも思っている。
商業映画は多人数でつくる。だから、設計図(シナリオ)が必要とされる。ドキュメンタリーだとしたらシナリオはないけれど、ある種の「作品の方向性」みたいなものはあるだろう。スタッフの共通了解事項みたいなもの。
映画をつくる発想のおおもとのところに「腫れた想像力」がかかわっていたとしても、多人数に「この映画をどうつくっていくか」を説明していくうちに、みるみる腫れはひいていってしまう。脆弱なものなのだ。
どの自主製作映画にもあるわけではない。たいていの自主製作映画は、商業映画のモノマネから始まり、うまいモノマネを目指すから、このような「腫れの痕跡」は残らない。
ところがどうだろう、この『スバルの夜』は。そもそものクリエイティブ部分(銀河画報社映画倶楽部)が山田勇男と湊谷夢吉さんのふたりいて、さらにスタッフもそこそこいるというのに、このジクジクたる想像力の腫れっぷり。
奇跡的であるとも言える。
2作目『夜窓』でもまだ「腫れ」は濃厚に残っている。3作目『海の床屋』でもまだそれは感じられた。その次の『家路』あたりから消えてしまったように感じている。