山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

自分の映画歴語りその3/『ポプラ並木の憂鬱』


高校生のときにも文化祭でのクラスの出し物としてホラー映画(当けっこう流行っていたので)つくりにかかわったりしたけれど、大学に入り、はじめて「学校の外で、入場料金をとって上映する映画」をつくることになった。
「有料上映をしたかどうか」を基準に考えているので、この『ポプラ並木の憂鬱』が私のフィルモグラフィー上の「第一作目」ということになる。
ここらへんのいきさつは端折ろうかと思ったけれど、これから映画づくりをしようかと考えている人にとっては参考になる部分もあるかもしれないので、たいして面白いいきさつでもないけれど、書き残しておくことにします。
20歳にもなっていない若造でありましたから、いろいろやりたいことはあれもこれもと山盛り状態なわけ。べつに映画づくりだけを志していたわけではなかった。政治的な活動にだって興味あったわけだし(ここらへんはカテゴリの「政治的なことがら」に)。
で、文芸同人誌サークルに入った。きっかけは、まず最初にノンセクトラジカル(どこの党派にも属さないけど、新左翼ではある)のサークルに加入したら、そこにいた先輩(松山東高校出身の宇都宮さん)が、私が入居した下宿のすぐそばに住んでいて、その人に誘われて加入。
1年ぐらい活動して小説めいたものを書いたりしているうち、私が8ミリカメラを持っていることが知られる。
顧問的な存在であったロシア語の先生である工藤正広さんが、太宰治ファンの集い「桜桃忌」実行委員であったことから、太宰治の小説を原作にして、8ミリ映画をつくろうかという話が盛り上がる。
ところが「製作費は出してやる」と言っていた工藤先生が「あれは飲み話なので」と裏切る。ちょっとムッとした私たちは「なら僕らが太宰よりも好きな坂口安吾原作で何か撮ろうぜ」ということになる。
製作資金は「自主上映をやってつくろう」ということに。それでやはり自分たちが見たかったベルイマンの映画(なんだか忘れた)を16ミリで借り、市内のホールを借りて自主上映。2万円の黒字。
それでは足りないので、もう一度上映会を企画。
今度は完全に儲け狙いで『赤と黒』を上映。やはり2万円の黒字に。
計4万円でつくったのが『ポプラ並木の憂鬱』です。原作は坂口安吾の『蝉』という、文庫本で数ページの掌編。出演者は全部、自分たちでまかなう(文士劇みたいなノリだったか)けれど、同人は男ばかりでヒロインがいない。
そこで、大胆なことに、当時、北海道大学文学部で「あのコは美人だ」と評判だった日本史学科の女性に出演交渉することに。
幸いなことにOKをいただいたのだった。それが当時は旧姓で川渕恵子さん、のちに何作品も出てもらうことになる寺本恵子さんなのでアリマス。
ここが出発点。
もう『ポプラ並木の憂鬱』を上映することはないけれど、そのラストシーンは『100年後』のなかに入っているし、なによりも海辺で主人公が友人を棒でひっぱたくシーンは、肩のあたりを叩く予定が手元が狂ってみごと頭を横殴りしてしまい、あまりの面白さに『海辺の記憶』の素材になってしまいましたっけ。