記憶が溶ける街
自分にもやもやとまとわりついているものがある。忙しければ気にならないのだけれど、気になりはじめるとぬぐい去りたくてたまらなくなる。
そういうときは、見知らぬ街に出向いてうろつくのがいい。
この日も、おそらくこれまでの人生で一度もうろついたことのない一角にたどりつき、そこで「ここだ、ここだ」と思ったのだった。
車で移動していたから、スーパーに駐車して折りたたみ自転車を取り出し、フラフラと目的もなく街うろつきを開始した。
すぐに、あの、うっとりとする感触に包まれた。
この、自分が毎日のようにうろついている空間、東京と埼玉にまたがる空間、具体的には多摩川より北、荒川より南西の平地、俗に「武蔵野台地」と呼ばれている空間は、まるで果てしのない空間、出口のない迷路のようだ。
どんなに遠くまでうろつこうと、またどんなにたくさんの人々と出会い、街路を知るようになろうと、自分はいつも自分じしんを置き去りにしているように感じる。
人の流れに溶け込むことで、自分は2個の目玉になり、何かを考えたり何かを心配したりする義務から逃れることができる。
平安と健康な空白がそこにある。
世界は自分の外に、自分のまわりに、自分の足元にあった。
身体を動かすことが肝心だ。一方の足を前に踏み出し、それに合わせて体を動かす。
目的もなくさまよい歩いていると、どこへ行っても同じことで、自分がどこにいるかは問題ではなくなる。気が乗っているときは、自分がどこにも存在しないように感じられる。そして、それこそ自分が求めてきた状態だった。どこにも存在しないこと。武蔵野台地は、自分がつくりだしたその非在の場所だった。
(文章の途中からポール・オースター『シティ・オヴ・グラス』<角川書店1989/山本楡美子&郷原宏訳>の4ページ途中からの文章を改変してくっつけています。反則ですね。失礼しました)