山崎幹夫の各種センサー

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大川戸洋介その4/非アイデンティティ映画


自分のこれまでの人生で、わりとよく知っている友人で「おれは悟りを開いたぞ」と言い出した人間が2人いる。「おお、それはおめでとう」と言いながら、内心は「あわれなやつ」と思っていた。
こんなこと書くと怒りを買うかもしれないけれど、その2人とも、もともとのプライドが高いにもかかわらず、社会的な地位だとか、収入だとか、周囲からの評価が、それに見合ってなかったのだろう。そんな内心の矛盾が積もり積もって、ある意味、妄想が発症するかのような具合で「私は悟りを開いたのだ」と思い込むに至ったのだと思う。
大川戸洋介はそんな境地とは無縁な人物だ。いや、性欲も物欲も名誉欲もあることは間違いないけれど、少なくともつくり出す映画においては、そんな俗世の欲望とは無縁だ。
おぎわらまなぶが「何か不幸がなくては日記映画にならない」と思ったのとは、真逆で、大川戸は「カメラがあり、フィルムを入れてカメラを回せばそれが映画になる」という構えなのだ。アイデンティティ(自分は何ものであるのか)という問いかけなどない。必要ない。
表現衝動があって、あとから映画というメディアが選択されるという、芸術大学出身のアーティストにありがちな回路で映画をつくっているのではない。そこに8ミリというメディアがあって、おこずかい程度でフィルム代と現像代が出せるから映画が生まれてしまうのだ。
しかも撮影場所は自宅やその周辺(多摩川)、カメラが向けられる対象は家族や友人、カメラを三脚に乗せてシャッターロックすることで自分もしょっちゅう作品に登場する(添付画像がそれ/『夢主人』より)。
見ているうちに「ああ、それでいいんだ」という気分になってくる。そうすると、じつに、楽になったような気がして、なぜか感動していたりする自分に気づく。
それでいいんだ。
物語などなくてもいい。不幸などなくてもいい。珍しい景色や特異な人物、いい女やいい男などなくていい。
でも、それで映画を成立させてしまうのは、大川戸洋介だけかもしれない。