山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

大川戸洋介その1/理に落ちない映画


2006年12月17日のこのブログ(まだ「映像制作ノート」だった頃です)で、大川戸についてこんなことを書いている。全文引用します。

本日は8ミリ教室@spaceNEO。
リクエストがあったので大川戸洋介の『夢主人』を、ずいぶん以前に大川戸からいただいたビデオで見る。
何度見てもおもしろい。
一言でいえば「理に落ちないことがこれほどまでおもしろさを感じさせる映画は他にないかも」ということ。
ひとつも説明しようとはしていない。ほんと、ひとコマたりとも。その素晴らしさ。ただながめる。猫のように、ただそこにいて、それがすべてのような顔をしている。涼しげな、心地よい風がいつも吹いている。悲しみや情熱は遠景になってにじんでいる。カメラを向けられた人はおどける。あるいは微笑む。もうみんな死んでしまったかのような、不思議な静けさに満ちている。光がやわらかい。

「理に落ちない」映画は大川戸作品ばかりではない。しかし大川戸作品以外の「理に落ちない」映画ってのは、たいていはデタラメな映画になってしまっている。デタラメであることは不快感をもたらす。大川戸の映画もじゅうぶんにデタラメではあるのだけれど、どういうわけなのか気持ちいい。いったいこれは何という映画魔術なのだろう。
「理に落ちない」ということは、観念的、概念的であることを捨て去っているとも言える。まるでそれは監視カメラのようだ。人間である以上、どうあがいても観念的であること、概念的であることからは逃れられないはずなのに。
なのに大川戸映画は軽々とそのことに成功している、ように見える。そこが魔術的だと感じるわけだし、すがすがしくも感じるわけだ。
大川戸についてはもうちょい連載を重ねて考察していきましょう。

添付画像は『夢主人』より。実家近くの多摩川のほとりで上着を脱いでふざけている自分撮りのショット。