山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

フィルムらしさを目で触感しよう@neoneo坐


このプログラムの上映作品は、
大川戸洋介『東京幻影談』1994年/40分
大谷高美『水葬』2011年/14分
しらくまいく子『She was looking at the sea』2012年/6分
しらくまいく子『as always』2012年/11分

大谷高美は復活したシネヴィスシネマをやっている人、しらくまいく子は8ミリ素材の映像作品のほか、文字を展示する詩をつくったりもしている人。
どちらも、終焉間近のように見える8ミリフィルムで新作をコンスタントにつくり出している。
ここ数年で目立ってきた(ように自分は感じている)のは、8ミリフィルムの特質を、それまでとは異なる角度であぶり出している作品だ。大谷高美としらくまいく子の作品からは、とりわけそんなことを感じる。
つまり、8ミリフィルムが表現の媒体として、まだまだ可能性を秘めているということだ。
いまさらそんなことを言ってもどうしようもないことだし、フィルムの終焉を止める材料にはならない。
けれども、ネガフィルムを自家現像して、これまで実験映画がえんえんとやってきた作業をさらに職人的なねばり強さで深化させようとしている大谷作品。
あるいは「女性らしい繊細な感性」などと、ヘどが出そうな浅薄な表現で片づけられてきた「女性作家でなければできないこと」を、さらに誠実に深化させようと試みている(ように見える)しらくま作品は、それがフィルムであるなしにかかわらず、表現ブツとして押さえておくべきものだろうと思う。

そして、それらのはるか源流にあるのが大川戸洋介だろうと思う。
80年代、それまでの言説の方法ではうまく解明することができなかった大川戸洋介作品の魅力について、大谷高美やしらくまいく子らの新作とセットで見ることで、もうひとつさらなるヒントを得ることができるのではないか、と憶測してのプログラミングなのです。