山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

自分の映画歴語りその7/山田勇男さんとの長いつきあい


添付画像は『往復IV』より。
この『往復』シリーズは、山田勇男さんとの8ミリフィルムによるいったり来たりの公開前提の交換映像日記みたいな作品だ。1986年に、美術館学芸員(北海道立近代美術館目黒区美術館)の正木基さんのプロデュースによって始まった。
寺山修司谷川俊太郎による『ビデオレター』がそもそもそんなことを発想するきっかけになっている。
始めてしばらくしてから「ん、ということは、山田さんかオレか、どちらかが死ぬことでこれは終了するってことかい」と思ったものだけれど、なんと撮影メディアである8ミリフィルムが死ぬことで終わりになろうとは…。
ま、それはともかく、山田さんとの出会いは私が大学生だった札幌でのこと。山田さんは私より7歳年長で、すでに社会人だった。
最初に山田さんを目撃したのは「駅裏8号倉庫」というイベントスペースで、何かを上映したときのことだった。映写しようと待機していると、その時、いっしょにいた誰かが「あ、山田勇男だ」と言った。観客として来ていたのだった。「え、どこどこ」と私は、興味深く、映写室からこっそりのぞき見した。「へー、あれが『スバルの夜』をつくった山田勇男なのか」と。
で、地方都市のいいところは、そういう人たちとすぐに知り合ってしまうところだろうか。
ちょうどその頃、寺山さんの講演会と『田園に死す』の上映を企画した人がいたので「あ、俺、スタッフやります」と参加した。
その打ち上げの席。ちょっとぐらい寺山さんと話でもできるかと思っていたら、もう二重三重に寺山さんは人々に囲まれていて、話するとかいうどころではなかった。
その翌年、寺山さんは亡くなってしまったのだった。あとである人に「寺山さんはPFFの審査で山崎の『非解釈』は見ていたから、ムリしてでも話しかけるべきだったね。きっと感想言ってくれたよ。残念だったね」と言われ。いやほんと、地団駄踏むほどくやしい思いにおそわれた。
だから、若いときはなかなか恥ずかしい思いでためらいがちだけれど、やっぱ、ここぞというときはずうずうしくならないといけないぞ(←説教モード)。
寺山さんと話ができなかったけれど、たしか、そのイベントがきっかけで山田さんと話をして、意気投合(エロい意味じゃないスよ)したのだった。
そうして、われわれ「映像通り魔」一同は、銀河画報社のはじめての16ミリ作品『巻貝の扇』にスタッフとして参戦することになったのでした。
長いつきあいの始まり始まり。