美学校映画祭(半分上映終了しているが)
今日で半分の日程が終了しているが、美学校映画祭2005のチラシがてもとにある。ここも誰かが選別するわけではない、アンデパンダン(無審査)上映会だ。条件は映画美学校に在籍しているか、したことがあるということだけかな。よくある卒展とは異なって、過去の在籍者にも門戸が開かれていることが特徴だろう。自分が知っている他のアンデパンダン上映では「フィルム素材の映画であること」が条件のシネヴィスシネマ、それから「8mmフィルムで3分の作品」が条件のパーソナルフォーカスがある。
無審査であることは「審査する」という権威的な行為をとっぱらったすがすがしさがある。しかし、見る方の側から言えば、まったくノーマークの作品をわざわざ足を運んで見るということはない。ぶっちゃけ、どこかで作家や出演者本人と知り合っていて、酒の勢いとか下心とかで「見に行くから」と約束してしまって来場するというパターンが多いだろう。
私は映像作家として駆け出し(無名)の時、いろいろと試行錯誤ののちに「映像通り魔」というグループを結成し、その名で北海道のあちこちを巡回上映した。それは、まったく無名で、作品レベルもまちまちな自分たちのグループを、とにかく見にきてもらう戦略でもあった。個人の名前を突出させようという気はなく、自主製作で映画をつくり、上映もみずからの手でおこなうグループとして認知されればいいだろうとの単純な「戦略」だった。
もちろん中身があることが前提だけれど、ただ上映する機会に参加するだけでは作品を生み出す主体として「つまらない」。逆に、ただ上映するだけでは「つまらない」。そんなうっぷんが溜まりまくるとエネルギ-に転化するのだろう。しかしそのためには「場」が必要だ。うっぷんは個人が持ち帰ってしまうと霧散するから、まいまいず井戸のように、毒素が蓄積して溜まっていくような「場」が必要だ。