どうやって仲間を集めるか
私の単独著作の3つめの本『映画を楽しくつくる本』(ワイズ出版/1000円)は「ビンボーだけど映画をつくってしまうための55のステップとノウハウ」ってなかんじの本だけれど、その最初の項目が「どうやって仲間を集めるか」だ。
自分の場合をここで書いてみよう。中学生のときの映画ごっこ、高校生のときの文化祭でのクラスの出し物としての8ミリ映画づくりを経て、さて大学に入って映研を訪ねる。しかし「これは違う」と直感して入らなかった。そこに入るとしばらくは他人の作品のスタッフになってしまう。俺は自分の作品をつくりたい。だから映研はだめ。
小説も書きたかったので文芸同人誌に入った。そこで、そこの同人たちをスタッフ、出演者にして、8ミリ映画をつくることになったのだった。これなら最初から自分が監督だ。(ちなみに現・オウム真理教最高幹部のヴァンギーサ(杉浦茂)とは、そもそもこの同人誌で出会ったのだった)
映画ができたら次にそれを上映すること。大学の映画制作グループは、とかく学校内で上映をしていたので、それに反発する意味もあって学外での上映をおこなう。単独ではまだムリなので、映研やアニメ研でつくっている監督個人と直接コンタクトをとり、一緒に上映をおこなっていく。そうする過程で、意気投合した(と言っても単純に朝まで酒飲みにつきあってくれたとか、『仁義なき戦い』とかの好きな映画が一致したとかの単細胞的理由)何人かと、独立したグループをつくることになる。
自分たちの製作活動と併行して、東京で活躍している自主製作の監督を呼んで上映会をおこなっていた。これは私たち学生が主催でなく、10歳以上も年上の人が個人的に主催していて、自分たちはスタッフという位置ではあったが、結果的にはかなり金銭負担もしたので主催していたと名乗る権利はあると思う。
石井聰互さん、長崎俊一さん、山本政志などなど。せっかく北海道まで来ていただいたので、安くてうまい海産物をつまみに、朝までプウプウ熱のこもった話をしたものです。矢崎仁司さんなどはよほど居心地がよかったのか、上映後、数ヶ月にわたって札幌に住み着いていたほど。
そんな活動をしているうちに、どんどん学校とは関係のないところで映画づくりに興味をもつ知り合いが増えていった。それらが、まるで沸点に達したかのようなぐあいで「この徒党に名前をつけなくてはいけないか」と思って命名したのが「映像通り魔」だった。インパクトありすぎるグループ名だけれど、やはりこれしかないと当時は思っていた。表現行為をするならトゲがないといけないと思っていたわけだ。世界が傷ついて、それを隠蔽するためにあちこちにかさぶたがある。そのかさぶたを剥がして膿みを出す行為こそが「世界に対して有効な表現行為」だとの思いがあった。だからこその「通り魔」なのです。
やっぱ根がパンクスですなー。
(添付写真は映像通り魔の解散上映の記念写真。右端は山田勇男さん。まんなかが佐々木浩久、あとは…ま、いいか)