編集に極意はない
昨日の記述はどうも急ぎ書きしていてわかりにくかった。
ひとことにすれば「編集に極意はない」ということだ。私は8ミリで映像を撮り、編集して作品をつくってきたので、こと8ミリに関する限りはサクサクとつなげることができる。フィルムを手にして、物理的な長さを見てとるだけで映写される時の時間に換算できるようになっている。ひっぱるカット、瞬間的なカット、それらがつながってできる映画のリズムのうねり、それらがフィルムというモノ相手に、感知できるのだ。長い年月やってきたからそういうことができるだけであって、それが優れたものになっていかどうかは別だ。
映像の学校ではどういうふうに教えているのだろう。私は「とにかくつなげたものを何度も見て、試行錯誤をして、できるだけ自分が満足できるようにすればいいでしょう」と言っている。しかし、見れば見るほど混迷していくこともある。たとえばこのブログ唯一コメントを書き込んでくれている(最近はコメントできない設定にしてます)北山勝寿くんがいい例かもしれない。彼は最初に8ミリカメラを手にしてつくった『花』という作品ではまったく無編集で通した。そして次の『海へ』はおそらく編集の苦難に直面したはずだ。現在60分弱に落ち着いているようだが、たぶんどんな長さでも落ち着くことができる作品なのだ。しかし作家は編集しなければならない。目の前にある作品という小世界を切りさばかなければ、世の中で一本立ちさせることができない。いやいや、それは作品に対して過保護な態度なのかもしれない。作品ってのは昆虫に似ていて、時期とタイミングがあえば飼い主のことなとまったく無視して巣立っていくものだ。
また脱線した。
1997年の山形ドキュメンタリー映画祭で私の『虚港』という作品が上映されたが、上映直後の質疑応答で観客から「どうやってこれはつないだのですか」と聞かれ、とっさに「スプライシングテープでつないだのです」と答えると、後方で立ち見していた観客のひとりにひどくウケて、その観客はからだを折り曲げてウファウファと笑っている。誰だろうと目をこらすと、かわなかのぶひろさんだった。
(添付画像はロフトプラスワンイベント告知ハガキ用のもの)