『マーキュリーハート 』解題のための「もう夜ノベル」を再掲載
長編映画『マーキュリーハート 』を映画配信サイト「鳴滝」で有料配信することになりました。『マーキュリーハート』は4つの連作短編である「夜のてのひらの森」「赤バット娘」「もうすぐ夜がやってくる」「水銀の心」をつなげたもので、ラ・カメラで上映したあとは、一度も上映の機会はありませんでした。
そこで、この作品の肝の部分である3番目の「もうすぐ夜がやってくる」を、その公開の時(2013年)に当ブログでノベライゼーションとして公開したものを、再度、全10回の記事をつなげて再掲載することにします。
先にこれを読んでから映画を見てもらってもいいし、映画を見たあとでさらに設定を掘り下げて知りたいという気持ちで読んでもらってもいいかと思います。
1●ドッペル君の前触れ
郊外の駅に向うバスに乗った。後部の空席に腰を下ろし、荷物をがさごそ膝上に納めたりして、それから窓の外をながめたりして、そうして、気がついた。映画のシナリオ的に書けば「!」という感じだ。
ルカニが座った前の席に、男が座っている。
後頭部しか見えないので、自分からは、男の髪型、耳のかたち、肌の色、着ているシャツぐらいしかわからない。
しかしその男の、後ろからの見た目は、驚くほど、数年前に死んだ知人に似ていた。肌の色もそうだし、服のセンス、後ろから見える範囲でのひげの生やしかたまでそっくりだった。
知人の死因は、首吊り自殺だった。
駅にバスが到着し、ルカニはバスを降りた。なぜかは知らないが、その男はまだ座席に座っている。
すこしためらう気持ちはあったけれど、ルカニはバスを降りてから振り返ってみた。
ふん。確かに顔つきまで似てやがる。しかし、自殺した知人とは目つきがちがった。なぜかほっとする。この、バスの前の席の男には狂気のようなものを抱えてはいなさそうだ。きっと生き急ぐということはないだろう。
それが、前触れその1だ。
その2は、女からのメールだった。女といってもほぼ同じ世代だから、とっくに結婚していて子どももいる女。
メールには用件のほかに、こんな文言があった。
「どうかうっかり死んだりしないでくださいね。そんなことしたら、私はものすごく悲しいです。立ち直れないかもしれません」
余計なお世話だ。
うっかりと死んでしまおうかなんてこと、毎日のように思いついているのだし、しかし
うっかり死んでしまいそうにない執着もいくつも持ち合わせている。あんたの都合には従わない。腹立たしい。
なにより、そういう「女の直感」みたいなものをなすりつけてきたことが不快だった。
その1とその2、ふたつのちいさな出来事があり、夜の帰り道で、また別の死んだ友人のことを思い出してしまった。
いけない、ふさぎ込んでしまうパターンにずるずるとはまっているような気がする。
気持ちを切り替えるために、駅の改札付近で、さも人を待っているような顔をしてしばらく立っていた。
その時、気づいた。改札からちょっと離れた場所で、女がひとり、ハガキのようなものを手にして立っていることを。
近づいてみる。
ハガキ大の紙にはこう書かれていた。
「夜の散歩を楽しむコミュ オフ会」
2●夜の匂い
女に声をかけ、一緒に夜の街を散歩することになった。
どこの誰ともよく知らぬ女と、さしたる目的もなく夜の住宅街を歩くということは、不思議と心地いい感触だ。自分にとってはよくうろつき回っているこの何の変哲もない郊外の街だけれど、このよくわからないシチュエーションのなかで、まるで新しい、自分が知らない街のように見えてくるような感触もある。
こういうの、何て言うんだっけ。ああ、そうだジャメヴって言うのかな。デジャヴの反対ね。
そう思うと、自分が少し希薄になったような感じがしてきた。
自分の存在が軽く、薄くなって、このいま歩いている街の隙間にしみこんでいく、そんな感じがする。
不思議なことだ。よく知っているはずの街なのに、よく知っているというは単に自分の思い込みにすぎなかったわけだ。じつは、何度もこの街のこの道を行き来しているうちに、街と自分とのあいだには水と油のようなはっきりした境界線ができていたようだ。
繰り返しその場所に身を置くことで、じつはその場所とは距離ができていって、しっかりと認識できなくなっていくことを思い知らされたようだ。
駅前の商店街などで、ある日、ひとつの店舗が取り壊されて更地になっているのに気づく。けれども、以前そこにどんな店があったのか、なかなか思い出せないことがある。何度も行き来するうちに見えてこなくなり、認識できなくなっているわけだ。
女と散歩することで、鈍麻した感覚がふたたびリセットされていくような気がする。
何かの匂いがする。何の匂いだろう。もしかすると、いつもこの匂いはしていたのかもしれない。なのに自分はずっと認知できたなかったのか。それとも。
「 何かの強い匂いがする。何だろ。夜だけ、それも一晩っきりしか咲かない花があったね」
すると女はこんなことを言う。
「 子どもの頃に住んでいた町で、雨が降ると何かの匂いがするのね。いやな匂いじゃないくて、いい匂い。それで今でも雨が降ると、その匂いがしてくるような気がして、なんかそれだけで懐かしい感覚になるな。でも何の匂いなんだろ。その匂いのこと、誰もわかってくれなくて。なんかこう、胸が締め付けられるような感覚になる」
「 自分は幼稚園の前を通ると幼稚園の匂いを思い出してせつなくなつかしい気持ちになるけどね。なんの匂いかな、あれ。粘土とかクレヨンの匂いかな」
「 牛乳をわかすときの匂いとか」
「 ああ、わかるわかる。小学校だと靴箱の匂いだとか、校庭の砂場の匂いだとか、ね」
女のコミュネームはペウレプという。発語しにくい、変わった名だ。まあ、発語できるだけマシか。昨今は顔文字使ったコミュネームなんてのも散見するしね。たとえば「\(^o^)/」こういうコミュネームで、読みは「ばんざい」だったりとか。
ペウレプとは「仔熊」のことだという。
「クマって聞くと、自分はリアルの動物の熊じゃなくて、どうしてもクマのプーさんを最初に思い出しちゃう」
そう言ってから、あ、そう言えばと思い出す。
いま散歩している住宅地から少し離れたところに数棟の高層マンションが建っている。まだ夜の浅い時間なの窓明かりがついているのが見える。そのうちのどれかひとつに自分の知り合いの女が住んでいるはずだ。
その女はかつて自主製作映画をつくっていて、クマのぬいぐるみが出てくる作品があったっけ。たしか、映画のなかで彼女が小説を書くという設定で、その小説は99歳になったクマのプーさんが、もう長いこと会っていないクリストファー・ロビンに対して手紙を書くという内容だった。
そのひとはもう映画はつくっていない。しかし文庫本を何冊も出していて、小説家として成功している。この、いま散歩している場所から見える高層マンションのどこかの部屋で、いまも小説の執筆にいそしんでいるのだろうか。
それにひきかえ、俺はいったい何をやっているんだ?
まあいい、考えないことにしよう。
プーさんやティディベアなど、クマのぬいぐるみは昔から大流行だ。
クマは人間を襲うイメージがあるけれど、じっさいのところクマに殺された人間の数よりも、圧倒的に人間に殺されたクマの方が多い。もっと言えば、クマに食われた人間よりも、圧倒的に人間に食われたクマの方が多いだろう。
もっとも多く人間を殺している動物は人間だ。
「そりゃあ、よ、この地球の上に生きている生き物のなかで、一番人間がイカレているからだろ」
そう言った知人もいたっけ。そうかもしれない。
クマを始めとして、ほかの生き物にとってはいい迷惑だろう。ある国の内戦によって、多くの家畜の牛や馬が巻き添えをくらって死んだ。負けた方の陣営の幹部が「死んでしまった牛や馬にも申し訳ないことをしたと思う」と言うと「何言ってやがる」と非難されたのだけれど、人間どうしの争いに巻き込まれて死んだ動物たちこそいい迷惑だったのではないだろうか。
なんてイカレて、なんて思い上がった生き物。
4●アイヌ語の染みた地層
ルカニはずっと物足りないと思っていた。
もっとぐっときたり、ドキドキしたい。ずっとドキドキしていたい。ぐっとくることの果てしない連続を味わいたい、と。
でも、不意の情熱はそう長くは続かない。
めらっと情熱の炎が上がっても、たいていは不完全燃焼に終わってしまうし、そのくせ後始末に妙に時間がかかって気力を消耗したりして。
夜の散歩はいい。
そこに溶け込んでしまえるように思うから。
ペウレプとたまに途切れ途切れの思いつき会話を交わしながら、夜の街を歩いていく。
女は真っ赤な靴を履いている。
情熱の赤、なのだろうか。これからどうなる? これからどうする?
住宅地がふいに途切れて、その先はしばらく雑木林が続いている。
雑木林は黒く闇に沈んでいるのだけれど、その向こうには大きな郊外型霊園があるのだ。そのことを女に言おうとしてルカニはためらった。
そのまま進んでしまうと雑木林の向こうにはラブホがいくつかあるはずだ。
だから霊園のことは黙って、そのまま女のあとについて進んでいくことにした。
そう言えば、ラブホのうちのひとつはピリカという名だった。ピリカとはアイヌ語で「美しい」という意味。
しかしそのラブホはいつの間にか名前を変えてしまった。現在の名はマキシム。なんとSM趣味専用ラブホだ。ホームページはこちら。
ラブホは改装と同時に名前も変えるけれど、ピリカからマキシム(しかもSMラブホ)とは何の連関性もなくて唐突すぎるな。
この女と入るなら、そのとなりのホテルY(ヤー)かホテルシエスタがいいだろう。そうだ、ここは所沢市松郷。映画『となりのトトロ』で主人公の女の子が「どこから来た」と聞かれて「松郷です」と答えるから、あの映画の想定したモデルはここらへんなのだ。さきほどの霊園裏の雑木林の道なんて、父親の帰りを待つバス停のモデルになった道なのかもしれない。
そもそも所沢市の「ところ」という地名は、北海道の網走の方にある「常呂(ところ)」とおなじアイヌ語由来の地名だという説もある。「川の流れが停滞して沼になっているところ」という意味だったかな。
ふふ、アイヌ語シンクロが揃ったようだ。
なんか、ドキドキしてきたな。
5●超人ダライ・ラマ
ラブホでペウレプがコスプレ衣裳を着るのを待つあいだ、手持ち無沙汰でテレビニュースを見ていると、ダライ・ラマが何かしゃべっている。
ダライ・ラマは転生について何か語ったそうだ。転生って?
自分が死んだあと、転生した次のダライ・ラマ(15世)は、チベット以外の場所で生まれるかもしれないし、それは男ではなく女である可能性もある、とか何とか。
転生ねぇ。
前世とか来世ねぇ。
だめだな、自分には。転生を信じる素地に不足している。
でも、もし転生という物語を受け入れることができるなら、それが死の無残さを緩和するのかもしれない。
ああ、そうだとすると、よくイカレた人間が「自分は××の生まれ変わりだ」と妄想することって、ちっぽけな自分があくまでもちっぽけな自分でしかない無残さを緩和するための逃げ道なのかもしれないな。
俺には無理だが、とルカニは思う。
それはそうと、今のダライ・ラマが転生を認定されたときの試験のエピソードっておもしろいね。
前のダライ・ラマの持ち物と、そうではないけど見た目は立派なものを幼児に見せて、正しい方を手にするかどうかを試験したらしいけど、きっとこの子は「見た目しょぼいものが正解」と直感したんだろうな。
しかし、最後の「使っていた杖はどっち?」の試験では最初は間違った方を手にしたらしい。でもすぐに正解の杖に持ち替えたということは、この子は「場の空気を読む力」もすぐれていたんだろう。もともと政治家向きなんだろうね。だから男女共同参画の風潮にのっとって、転生も男女共同参画を唱えたんだろう。
それにしてもペウレプの着替えはまだ終わらないのか。
6●うどんとエロと武田泰淳
酔っぱらったルカニはある時「うどんはエロいし、女もエロい。うどんを食う女はさらにエロい」と言い放ったそうです。ルカニの言い分を(酔っぱらいなのでクドいですが)もうちょっと聞いてみましょうか。
「そうじゃないうどんもあるけれど、うどんは見た目もエロいし、食ってもエロい。真っ白なうどんじゃなくて、エロいうどんは少しばかしクリーム色がかっていて、さらにちょっとだけ透き通っているような見た目なんだよ。弾力のある讃岐うどん全盛の昨今だけれど、伸びのある大阪うどんや博多うどんを口に入れて噛み締めてみろ。口のなかでむにゅぷるんとうどんが身悶えして口内の粘膜をアレしてくれるじゃないか。エロいっ。女の人のエロさってのはここで改めてうんぬんしないけれど、そのままでは少しもエロくない女の人であっても、無心にものを食べている姿はエロいと思うぞ。これはかの武田泰淳もそう書いている。『もの喰う女』という掌編小説だ。引用したいが今、持ってねえや。すまん。だからまとめるとこういうことになる。そのままではさしてエロさを感じさせない女が適切だな。そうね、あまり存在感をアピールしてないようなタイプの女がいいだろう。舞台役者さんみたいな、存在感オーラが出まくっているようなタイプと正反対な女がいい。それがうどんを、無心にね、ずずって啜るわけですよ。ずずずずずって。一気に啜り切れないでうどんが何センチか口の端っこからはみだしていたりして。それを最後にしゅぽって啜り込む。ああ、なんとまあ、エロき光景であることかな……」
7●犬死にローザ
今日はペウレプにチャイナ服コスプレをしてもらっている。
スーパーファミコン世代だったりすると、チャイナ服=ストリートファイターllの中国拳法少女の春麗(チュン・リー)をイメージするはずだ。
そう、いわゆる戦闘少女萌えってやつですな。
その源流は何か、とか遡っていくと、たとえば静御前だとか、ジャンヌダルクなんて名前も思い浮かんでくるけれど、それは遡り過ぎのような。
もちっとリアルなところに引き寄せて思い出してみると、おや、ゲバルト・ローザなんて名がアタマに思い浮かんだぞ。自分よりちょい前の世代だけどな。
ぐぐってもらえば話は早いかもしれないが、東大全共闘で果敢な革命闘争をした柏崎千枝子のことを通称、ゲバルト・ローザという。
柏崎千枝子だけでなく、各地の大学、高校、三里塚をはじめとする闘争の現場で、機動隊と押し合いへし合いするような、ヘルメット装備の激しいデモに参加するような若い女性にはもれなく「××ローザ」の愛称がつけられたのだった。
まだ「萌え」なんて言葉はなかったけれど、自分にとっちゃ、ここらが戦闘少女萌えの源流だな。不謹慎ですが。
学生運動の盛んだった大学などに何人もいたはずのゲバルト・ローザたちの多くはどうしているんだろう
彼女たちの多くはまだ生きているのだろう。少なくとも、政治的な闘争で死んではいないはずだ。こののっぺりと優しい街のどこかで、のうのうと生きていて、韓流ドラマなんかをでれでれ観ているところなのかもしれない。
柏崎千枝子。ふーん、1943年生まれか。というと2013年のいま、なんとなんと70歳だよ。ゲバルト老婆、なんちて。
存命なのかどうか、ぐぐっても何も出ないけどな。死んでたとしても犬死にしてはいないだろう。
さて、その「ローザ」のもとになったドイツ共産党の創始者であるローザ・ルクセンブルグは、あっさり殺されている。それも撲殺され、死体は投げ捨てられたままになるという犬死にぶりだ。すげえな。さすが元祖。
ローザ・ルクセンブルグについては続報がある。2009年に発見された、とある首なし死体をDNA鑑定して、それが確かにローザ本人だと認められたらしい。
うへっ、なんだかなぁ。
そのほかの革命英雄といっしょで、けっきょくは神格化されてしまうのかねぇ。
死体が、死んだ場所がやがて石碑が建てられ、人々が参拝するようになり、入場料を取るようになり、土産物屋ができて「ローザまんじゅう」が売られるようになる、と。
だから、ビンラディンをアメリカ軍が殺したとき、のちのちそうならないように、死体を現場から強奪していって、どこかの海まで運んで水葬したんだっけ。
まだかなペウレプ。ほんと長いな、女の着替えって。
8●入間川の河辺で
ラブホを出て、いつものように入間川沿いにぶらぶら歩く。
さきほどラブホでペウレプにひねられた左手の指がまだジンジンと痛む。
もうしばらくすると日が沈む。けだるい午後の底の時間だ。
この時間がなぜか好きだ。エッチそのものよりも、ずっと心地よい。けだるく、どっぷりと夢の世界の入り口にそろりそろりと近づいていくような感触がある。
そしていつものベンチへ。
対岸にいつか置き去りにした女が夕闇迫るなかでこのベンチに座っていることを確かめたスーパーマーケットがあり、国道299号の橋のむこうには、あのマンションが見える。
あのマンション……。
いつだっけ。そうだ、とある女に「生きていたらきっと君ぐらいの女の子が誘拐されて、殺されたんだ」と説明したことがあったっけ。
誘拐の現場まで行って画像を撮るような人もいるようだけれど、自分はあまりにも痛々しくて近づくことさえできない。ただ、川のこちら側から眺めているだけだ。
もちろん、殺された幼女にも、殺したとされ、とっくに死刑になってしまった男にも何の面識もかかわりもない。けれども何か、自分のこころの底のほうから、わき出してくるものを感じるのだ。
何だろう、この激しい感情は。
ペウレプと歩いた夜に、色褪せた通学路標識を見つけて「なんか、ぐっとくるんだよね」と言った。それと、何か関係があるのだろうか。
自分の心のなかのことなのに、自分ではさっぱりわからない。意図的に意識の表面に出ないように押さえ込んでいる何かがあるのかもしれない。それは何だろう。途方もなく大きなトラウマなのか? それともじつはたいしたことのない、けれども消し難く刻印されてしまった幼少時の心の傷なのか?
ぬるい風が吹いている。
ペウレプは昼間からずっと黙りがちなままだ。
そろそろ日没の時間だ。空が茜色に染まり、あたりは急に暗くなってきていた。
9●イオマンテの犠牲の仔熊
アイヌの有名な祭礼であるイオマンテの祭りでは、熊を犠牲として殺す。このときの熊は、そこらの野良熊を捕獲してくるのではなく、冬眠している母子熊を見つけて、母熊は殺し、仔熊は集落に連れ帰り、集落のなかでイオマンテの日まで大切に育てる。
熊をペットとしている人はあまりいないので、おそらくとても獣臭かったりとかするだろうけれど、仔熊がとてもかわいいということは多くの人が同意してくれるだろう。
イオマンテで殺されてしまうことが定められているにもかかわらず、いや、それだからこそ、この仔熊は集落のメンバーの愛情を一身に集めるアイドル的な存在であることは間違いない。
その仔熊を殺し、肉をいただく。
魂を受け継ぐ、というほど大上段に構える必要はないのかもしれないけれど、じぶんたちの命はそのような犠牲の上に成り立っていることを学ぶわけだ。
駅で出会った女が自分のことをペウレプ(仔熊)と名乗ったのは、自分が何かの犠牲になろうとしていたわけではないだろう。おそらくは本名が熊田だとか熊野とか熊谷とかだからなのだろう。
こんなふうに書いていくとまるでルカニの言い訳だ。「俺じゃねぇ、俺は操られただけだ。所沢の土地にしみ込んだアイヌのことばが呼び起こした何かに、ただ突き動かされただけなんだよぉー」ってね。
ペウレプは犠牲の仔熊で、ルカニがその執行者なのか。
だとしたら、何のための執行なのだろう?
イオマンテの犠牲の熊は、丸太で首をはさみ、窒息死させると言う。
そう言えば、ラブホでペウレプに指をひねられたのは、そもそもはルカニがペウレプの首を絞めようとしたからだった。
10●夜長姫の誘い
「さあ、もうすぐ夜になるよ」
昼の不機嫌さから一転して、にこやかにペウレプはルカニに手を差し出した。
なんなんだこの女は、重度の低血圧か?とルカニは内心思う。それとも、この入間川の河辺に何か秘密があるのかもしれない。前にもあった。チェプキという女は、俺が髪を触ったとたんに豹変して俺をなじり、そこらのモノを投げつけてきた。そうだ、そうかもしれない。
夜に元気になる姫。
そう言えば夜長姫ってキャラがいたな。
キャラなんて言うとアニメか何かみたいだけれど、小説だ。坂口安吾の『夜長姫と耳男』というやつ。
耳男は仏像彫刻をする醜い男で、夜長姫はその男を導くミューズみたいなキャラだったっけ。
仏像彫刻を映像製作に置き換えて、俺とペウレプの関係にあてはめることができるのかもしれない。
耳男はこれまでにないような仏像を彫るために、ヘビをつかまえて首を裂き、その生き血を飲んでヘビの死骸は部屋に吊るしたという描写がある。そういえば、もうフィルムでの製作はしていないけれど、フィルムを編集するときに部屋中にカットの断片を吊るしていて、それを『夜長姫と耳男』のヘビの死骸みたいだと思ったことはある。
耳男は最後に夜長姫を刺し殺して終わる。
そう言えば、またあの匂いがするな。夜の住宅地の匂いとでも言っておこうか。
なつかしくて、胸が詰まってくるような匂い。
脳のなかの仕事分担の配列では、記憶の領域のすぐそばに匂い解析の領域があるそうだ。それが匂いと記憶が密接に結びついていることの説明になるらしいけれど、そんなことはどうでもいい。
忘れていたことをいろいろ思い出すと、あふれ出す記憶に現在の自分が押し流されて、自分がすこしばかり溶けていくような気になる。
それはわりと気持ちいいことだ。
次の曲がり角で怪物に遭遇して、頭から丸かじりされようとも、目をつむってその事態を受け入れられそうな気がする。