山崎幹夫の各種センサー

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関根博之その2/廃墟を遊泳するカメラワーク


多くの廃墟DVD映像が「つまらない」のは、その凡庸なカメラワークにも一因がある。
ではどんなカメラワークがいいのか、そのみごとな回答が関根博之作品にある。ただし、簡単にマネできるものではないのだけれど。
関根博之の廃墟映画は、まるで廃墟全体が水没していて、そのなかを潜水しながら撮影して巡っているような印象がある。つまり、ほとんどすべて、カメラは手持ちだ。そうして、ゆっくりと移動している。絶対に走ることはない。普通の速度で歩くということもない。じっくり、廃墟のけはいに耳をかたむけながら、できるだけ足音をたてないように、自分のテリトリーでないところを徘徊する猫のような足どりで廃墟を移動していく。
特異なことをしているわけではない。手持ちカメラの基本に忠実な動きをしているだけ、とも言える。カメラは両手で支え持つ。そうして脇はぐっと締める。呼吸はできるだけ殺す。短いショットだったら息は止める。移動はすり足で、そろりそろりと。これホント、基本のなかの基本。
なのに、関根博之の廃墟映画は、あれだけ記憶に残る。それには、もうひとつの「術」がある。関根さん本人から聞き出した話なので、想像で言っているのではない。
関根さんはある廃墟を撮影対象にしようと決めると、すぐに8ミリカメラを回したりはしない。まずはその廃墟に通い、とどまり、写真を撮っていくそうだ。そういう作業を経て、2つのことが得られる。
ひとつは、その廃墟の魅力を抽出できるということ。初見の印象に引きずられるのではなく、どこをどのタイミングでどう撮ればいいのかが明らかなになっていくわけだ。
もうひとつは、廃墟との一体感と言えばいいのだろうか、交感と言ってもいいかもしれない、廃墟のなかで流れてきた時間を自分のものにすること、廃墟のなかに残留している思念のようなもの(それは廃墟にあるものでなく、訪問者であるわれわれのアタマにすでに存在したものかもしれないが)をつかまえること。
そうしてできたのが数々の関根博之の廃墟映画なのだろう。
添付画像は『U・O』。