山崎幹夫の各種センサー

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関根博之その1/廃墟映画の最高峰『六本木の廃墟』


関根博之といえばやはり廃墟をじっくりと撮影した数々の8ミリ映画であり、そのなかでも最高の到達点に達しているのは『六本木の廃墟』だろう。つまり、廃墟映画の最高峰は関根博之『六本木の廃墟』で決まり。
俺じしんが廃墟好きだから、自作品にもよく廃墟が出てくる。しかし関根さんのように、廃墟そのものを被写体というか、映画の主題にしたことはない。『六本木の廃墟』を見たあとには、それにかなうはずもないので、なおさらそのまんま撮るなんてことはできない。
そもそも、廃墟の魅力ってのは、そこに実際にたどりつき、好きなだけの時間そこを探索して廻ることにあると思っている。そのときに重要なのは、その場所の空気感だ。映画ではその場所(廃墟)のひんやりとした湿り気をそのまま伝えることができない。匂いにしてもそうだ。植物が積み重なって朽ちていくときの匂い。雨にさらされたコンクリートがはなつ匂い。そういったものを直接にスクリーンからはなつことはできない。
だから、廃墟を直接の主題にすることはあきらめていた。あれは、そこにいってうろつくべき場所であり、被写体にはならない、と。
しかし、関根博之がそれをくつがえしてくれた。
まるでアレですよ、俺は「オナニーがじっさいのセックスよりいいワケないじゃない」と頭の悪いことを主張していたみたいな感じ。恥ずかしい。
関根博之の廃墟映画全般に言えることだが、世の中にいろいろ出回った廃墟写真集、廃墟DVDにはない決定的な特徴がある。
一歩一歩、廃墟のなかを探索して進みときのドキドキ感がある。廃墟のなか独自の湿り気を表現する視点がある。そして何よりも、廃墟のなかに全身をひたしている快楽が表現されている。
そして『六本木の廃墟』には、さらに2つの強力なアイテムが込められている。ひとつはそこで死んだ、なかばミイラ化した猫の死体。かっと開かれた口に牙が見える。これを、さらっと流すのでなく、ブンブンまとわりつく蠅のようなカメラで、執拗に、じつに執拗に関根カメラは撮っている。このインパクトは比類なきものだ。
それから、廃墟で発見した16ミリフィルムに映っていた、どこか南国っぽい風景の映画の一部。これが、薄暗い廃墟から、光のさんさんと輝く南の方のどこかの昔の光景へと、一挙に時間と空間を超越して「なにかとなにかがつながっている」という、超越的な感覚をもたらしている。
ああ、そうだ。超越感。それが関根博之の廃墟映画に共通する感覚かもしれない。