山崎幹夫の各種センサー

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内村茂太その1/『僕のカッパドキア』


友川かずきというフォーク歌手がいて、80年代後半のある時期、吉祥寺のマンダラで何回かライブを聴いたことがあった。もちろんレコードも持っている。
私の映画の話で言えば、『極星』のなかで、神岡猟が高層団地でギターを持って歩きながら、何か歌い始めるけれど、飛行機の音にかき消されてしまう。あのときに歌おうとしていたのが、友川かずきの歌だったっけ。
で、マンダラでの話。あるときのライブのあと、知り合いとさらに酒を飲んでいると、突然のように友川かずきが私の前にあらわれてこう言った。
「おい、おめぇ、この田舎者。さあ飲め」
そして酒をグラスにドボドボいれたのだった。
いきなり「田舎者」と決めつけられたのは、深く記憶に残る出来事でありました。
こういう感じ。
「生きているって言ってみろ」と迫ったりとか、田舎と都会とか、親の世代と自分の世代との相克を際立たせてみたりとか、とにかく波を起こして、そこから何かをあぶり出そうとする姿勢というか、生き方というか。そういうのって、60年代から70年代っぽいですよね。
そのようなセンスをじゅうぶんに意識しつつ、ポイッと止揚しているのが内村茂太の映画世界でしょう。
カメラを持つ自分。飼い猫のチャコ。「妻」としか作品中では言われない細君との三人六脚、いや二人と一匹で計八脚の日常スケッチが内村茂太の映画の構成要素のすべて。
二人と一匹の世界から外にカメラが向けられるとき、たとけば添付画像のような光景が捕獲される。
いいよねぇ、これ、ホントに。
何らかのイベントでパンダの着ぐるみを着ている人が、ちょっと腰掛けて休んでいる光景。こんなショットをすかさず集めてくるところに内村映画の真骨頂がある。そう、だから「生きているって言ってみろ」の裏側の世界なのだろう。力んでいる自分も肯定し、疲れてちょっと休んでいる自分も肯定する。しかし坂口安吾みたいに「全肯定せよ」とアジテーションするのでなく、ちょいと脱力気味にこうした世界を控えめに差し出してみせる。
それが内村茂太の映画世界なのだ。