山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

PKD『死の迷宮』


創元文庫版35ページ
「あるとき、何年も前だけれど、きみは雄ネコを飼っていたね。愛していただろう。いぎたなくて偽りに満ちたネコだったのに愛していた。ある日、骨のかけらが胃に刺さって死んだね。ゴミ箱から火星ネワシの死骸をあさったせいだ。きみは悲しんだけれど、それでもネコを愛していた。好色なところ、食い意地のはったところーーあのネコを成していたすべてが、あれ自身を死に追いやってしまった。生き返らせるためならきみはどんな代償も支払ったろう。しかも昔のままの、いぎたないがめついあいつ、きみの愛していたあいつが何一つ変わらずに戻ってきてほしいと思ったね。わかるだろう」
「あのとき、祈りました。でも救いは得られませんでした。導製神なら時間を巻き戻してあいつを蘇らせることもできたでしょうに」
「いまでもあのネコに戻ってきてほしい?」
「はい」きしむような声でモーリーは言った。
精神科医に診てもらう?」
「いえ」
「祝福しよう」地を歩む者は、右手である動作を行なった。ゆっくりとした威厳ある祝福の仕草だった。セス・モーリーは頭を垂れて、右手を目に押し当てた……そして、顔のくぼみに黒い涙がたまっていたのを知った。まだ覚えていたのか。あのしょうもない爺さんネコを。何年も前に忘れていてもよさそうなものなのに。ああいうことは決して忘れ去ることはないのだろう。全部ためこんであるんだ、心のなかに。埋め込まれているんだ。こんなことが起きるまで。
「ありがとうございます」祝福が終わった。
「あのネコにはまた会うことになるよ。きみが天国にすわるときに」と歩む者。
「本当ですか」
「ああ」
「昔のままのあいつに?」
「ああ」
「わたしを覚えてるでしょうか」
「いまでも覚えているよ。待ってるんだ。いつまでも待っている」
「ありがどうございます。ずいぶん楽になりました」とモーリー。
地を歩む者は去った。