山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

コダクローム廃絶について思うこと

昨日はブログの更新をしなかったが、8ミリに関することでドキュメンタリー作品をつくる予定の知人がやってきて、深夜にいたるまで話をしていたのだった。
そのなかで、私は酔っぱらって「シングル8がなくなることよりも、コダクローム40がなくなってしまったことの方が8ミリ愛好家にとっては大きな痛手なのではないか」と言ったのだった。
コダクローム40は製造を終了した。この夏いっぱいぐらいで正規の現像も終わってしまう。正規でない、しかしそこそこ評判のいい現像所(K14ムービーというかドウェインズラボというか)はまだ現像サービスを続けるという。しかしおおもとのフィルムがなくなってしまったということは、もうこれからコダクローム40によって8ミリを撮れないということだ。
コダクローム40の存在こそ、高価なメディアになってしまっても、まだ8ミリを楽しんでやろうという原動力になっていたのではないかと推測する。
先日のneoフェストで余興上映した、私の中学生のときの映画ごっこフィルム『パラドックスワールド』で、上映していて一部の観客から「おっ」という声が上がった部分がある。それは、白黒からカラーになったところで、そこではシングル8がまだ外式のカラーフィルムだった頃なのだ。「おっ」という声が一部から上がるほど、鮮やかな色だった。
これは『極星』のコアな部分を支えてもいる。『極星』がいい映画だと感じたとして、それは過去のフィルムを引用した部分がもたらしている力が大きい。そして、その過去のフィルムとは、シングル8が外式現像だった頃のフィルムなのだ。
また、私の作品で例を出すと『猫夜』のことがある。この作品は私がインドに行く部分から、それまでのシングル8から、スーパ-8、それもコダクロームにフィルムが切り替わるのだ。だから、重箱の隅をつつく人からは「最初に神岡くんに渡した8ミリカメラと、最後に神岡くんから返してもらうカメラがちがうじゃないですか」と言われる。とくに映画のなかで説明していないのだけれど、前半はシングル8、後半はコダクロームというのは、その当時に考えたコンセプトだ。
おなじコダックの8ミリフィルムでも、エクタ系はすべて内式のフィルムなのね。現像プロセスの手間はかからないから、内式のフィルムは自家現像も可能だし、小さな現像所でも扱える。
しかしコダクローム40や、かつてのシングル8の見せてくれた発色は、もうできない。
8ミリフィルムの魅力について、これまで「その質感」を第一に押し出してきた。しかし、前に書いたように「貧乏人が映画をつくるメディアである」ということと、「コエダクローム40の魅力」ってのはかなり大きな要素としてあった。このことは、ホントにあぶくのようなつぶやきだけれど、ここに記しておきたい。