『極星』を思い出す3
添付写真は昨夜電話がかかってきた自主映画の撮影現場。急な出演なので全体のストーリーはよくわからない。私の役は医者で、主人公との会話など2シーンのみ。いずれ、出来上がって上映が決まったときにでもまた書くことにして、さらに『極星』について想い出話をしよう。
でたらめに撮り進めた「物語らしきもの」はなかなか作品へと結実していかない。しかしそんなにあせってはいなかった。無駄は大きいとしても、とにかくカメラが回っているうちは少しでも前に進んでいるという実感がある。いずれ、どこかにたどり着くだろう。そのことに関しては脳天気に構えるのがいいはずだ。
で、いったい何がしたいのか。
映画がつくりたい。それも、自分がこれまで見たことのないような映画がつくりたい。
そう、映画ごっこの最初は、それまで見たことのある映画をなぞることだった。ひどくつたなく、予算もなく、花もなく、しかしなぞることだけで満足できた。それが、あっという間に欲望は膨張して、あろうことか「自分が見たことのない映画」がつくりたい、なんて思っている。
そのためにはカメラに先行して走ってもらわないといけない。映画の記憶にまみれているワタシよりも、冷徹な態度でカメラが先走ってもらいたい。そういう状況をつくることが肝心だ。
そう思ったのはこの当時、大川戸洋介という映像作家の作品に魅了されていたからなのだ。彼が撮るのはつねに自分の身の回りだけ。なのに、大宇宙を感じさせる。どうしてそのような他に例のないような個人映画がつくれるのか、不思議でならなかった。それで同じように大川戸洋介の映画にひっかかりを持つ人々(全世界でたったの数人)といろいろ話してみて、大川戸の映画には、普通あるような観念の汚れがないことに気づく。人間はカメラを回すとき、どうしても意味を伝えることを考えてしまう。ところが大川戸のカメラってのはぶんぶん飛び回るハエの複眼に監視カメラをつけて、その映像をつないでいるような感じなのだ。個人が個人であるためのアイデンティティーがかなり抜け落ちている。そしてそれはじつに清々しい映像の連続なのだ。まるでカメラがはじめて意思を持ち、たまたま居合わせた大川戸洋介を三脚やドーリーがわりに使用して映画をつくっているような感じなのだ。
湿った人間(自分)ではなく、乾いたカメラを先行させることで、いろんなものが解決していく、そんな映画にしようかと思った。(続く)