山崎幹夫の各種センサー

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『極星』を思い出す4


もはや作者である自分も、どの順番で撮影されたものなのか記憶にない。
そう、時系列に忠実な映画ではないのだ。
気持ちの流れや、映画としての流れからいってハマればそれが正しいということでいいでしょ。だいたい思い出なんてビデオテープといっしょで、どんどん劣化していってしまう。人間の記憶ですら簡単に改ざんできるのだから、正確に何が自分に起こったなんてことはどうでもいいのだろう。最終的に映画になって、それを何回も自分で映写しているうちに、ホントにこの映画の流れのとおりにものごとが起こったのだと洗脳されている自分がいる。
自分を刻むつもりでフィルムを刻む。
しかしどの時点で「完成できる」と確信したのだろう。やはり、富山でカーコとその子どもに出会ったこと。出会っただけではなく、やはり渡し船に3人で乗ったというシーンが撮れたことが「よし、これでいける!」と思ったポイントだったのだと思う。
その確信があったからこそ、目の前に積まれたフィルムに手をつけることができたのだ。
あとはどう捌いて並べてみせるか。他人に伝わるかどうか。あるいは、他人の心を揺らすことができるかどうかは、映像の並べ方、編集で決まる。
添付画像は夕焼けに向かって自転車で走っている見た目のシーン。このカットのあと、過去の自分のホームムービーの引用が始まる。そしてこのカットの前は、同じく夕陽に照らされて地面に長くのびている自転車に乗った自分の影。さらにその前はうさぎを埋葬するシーン。
つまりこの添付画像のシーンがこの映画の転換点になる。
ミステリー映画みたいな構造といってもいいかもしれない。前半は謎が謎を呼ぶ構成にして、後半は次々と謎が解決していく、そのスピード感が娯楽的な快楽を観客に与えるように、『極星』の前半は行き詰まりの連続、そしてこの転換点を経てからはほぐれていく。何がほぐれていくかと言えば、映画それじたいがほぐれていくのだ。カメラが自律的に動き始めることで、映画にほのかな「自由っぽい感じ」がもたらされ、そのことが結果的には作者の人生をもほぐしていく。そうしてついには投げ捨てられたはずの物語映画の出演者である神岡猟までふたたび登場して、夕暮れの草原で気ままに叫びながら走り回っている。
何も解決しているわけではない。しかしカメラが走り出すことでそんなことはどうでもよくなる。すなわち、映画的な快楽にゆだねてしまったところで終わるのだ。この構造は、じつは『猫夜』『虚港』でも繰り返される。