山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

『猫夜』を思い出す


昨日撮了の『バオバブのけじめ』で私の『猫夜』の1カットを撮影した場所が使われということを書いた。その時にカメラを回していた神岡猟はもうこの世にはいない。そんな事情もあって、撮影現場での待機中、神岡のことを思い出したり、この橋をふたりで通ったときのことを思い出したりして、せつない気分にひたっていた。
『猫夜』でのそのシーンは、神岡が、私に8mmカメラを返却するシーンの前のシークエンスだ。作品のなかでは最も神経を使ってつくらなければいけないところだ。さりげなく、しかし繊細に。
もともとのコンセプトにそくして、神岡にまかせていたのだが、どうもうまくはまるものが撮れてこない。そこで、神岡が私にカメラを返すシーンを撮影する日に、私と神岡で、その前の、設定上は神岡ひとりで撮ったという日記的な映像をふたりで撮ることにしたのだった。
神岡が私にカメラを返すシーンは、去って行く神岡のそばには、夕陽に水面をきらめかせる川が欲しかった。そこで縦横に運河が走る木場で撮影することにした。なので木場だったのですよ。もっと言えば、その頃、私は練馬区の公務員をしていて東京23区の職員の研修所がこの木場にありまして、公務員だから研修は午後5時に終わり、そのあとはこのへんをロケハンして回ったという事情もあり。
神岡が日記的に撮ったという設定だから、いっしょに歩いて、神岡が撮りたいと思ったものは勝手に撮ってもらう。私が「これを」と思ったものは、指示して、カメラじたいは神岡が回す。そういう取り決めでぶらぶらと歩き回ったのだった。『バオバブ』の私がバシャバシャしてるカットのそばの橋での撮影は、神岡じしんの判断でカメラをまわした。
まだ何も語れていない。
あそこが『猫夜』の撮影におけるキモだったことは確かだ。
『猫夜』を見ていただいた人はわかるだろうけれど、最初、8ミリカメラを押し付けられ、なにげにカメラと戯れていた神岡が、カメラで世界を撮ることのおそろしさに気づくというシーンなのだ。カメラは町をさまよい、不確定的なニュアンスを漂わせるものを収集していく。いや、単なる衝動であってもいい。衝動であることに、それまでの経緯で純粋になっている。つまり、人間が観念の病に操られてカメラをまわしているというよりは、いくぶんかは昆虫がブンブン羽音を響かせて飛び回りながら見た景色を指向しているということだ。
要するに『無翼の朝と夜』で現出させた映画世界に近づいていくようなシーンなんですな。
夜の町を、8mmカメラとともにさまよい歩き、神岡はカメラによってそれまで出会ったことのないエネルギーを感じ取る。そして自分はその場所から「降りる」ことを選択する。そういうシーンだったわけです。
不思議なことに、この時、神岡が直面したであろうものを、では劇映画のかたちにしたら、今回の『バオバブのけじめ』の私が演じた役の、このシーンでの川飛び込みにつながるのだろうということ。
ふたつの映画はシンクロしている。
ところで添付画像は育映社の前をさらに線路側に行ったところにいつもある巨大なラバーコーン。1m50cmはあるだろう。いつも「何かに使えそう」とぼんやり思いながら通り過ぎる。