山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

バチバチ2012.7.8@ラゾーナ川崎(その1)


自分の心は50歳すぎた中年男っぽくパサパサと乾いている。
乾いていることに気づいたのは、心が濡れたからだ。濡れてはじめてパサパサに乾いていたことを自覚した。
ことの発端は5月に群馬県伊勢崎市にWWSのプロレス興行を観に行ったからだった。北関東のやや古びた体育館でプロレスを観ていて、そういえば20年近く前に、おなじように埼玉県の田舎町でプロレス興行していたバトラーツの試合を何回か観戦したことを思い出したのだった。
あれはなかなかよかった。
そう思うと、心の奥底のあたりから、じわりじわりと水分めいたものがわき出してきたのだった。
おおっ?

バトラーツは代表の石川みずからが言っていたことだけれど「捨てられた子犬たちの団体」だった。
彼らは「プロフェッショナルレスリング藤原組」の若手レスラーたちだったのだけれど、そのスポンサーからまとめて解雇されてしまったのだ。それでもプロレスを続けたかった彼らは、しかたなく団体を旗揚げする。でも、名もなく、貧しく、美しくなく、だった。
華麗な空中殺法などできない。
先に藤原組を出ていってパンクラスを旗揚げした船木誠勝鈴木みのるのような、洗練された関節技もない。
男や女のレスラー個人のファンを集めるようなかっこよさもない。
やれることは、泥臭く、ゴツゴツとしたシバキ合いしかなかった。しかしそのシバキ合いには「なにくそっ」という怨念、情念に裏打ちされた、強いエモーションがこもっていた。
それそれ。昭和のプロレスにとって、もっとも大切な要素だ。
でもたいていはそういう気持ちはじゅうぶんにあっても、気持ちじたいが空回りしたり、その気持ちを観客に伝える力に乏しくて、なかなかうまくいかない。
が、奇跡的なことに、歯車と歯車が噛み合うように、石川雄規池田大輔の戦いにおいては、その痛み、その気持ちが、じーんと心が心地よくしびれてくるように伝わった。
埼玉の片田舎の、麦穂だか稲穂だかに取り囲まれた体育館で、せいぜい50人から100人の観客の前で繰り広げられていたゴツゴツしたシバキ合いの記憶……。

池田大輔全日本プロレスへの参戦をきっかけに、三沢光晴に認められたのだろう、2000年のノア旗揚げメンバーに名を連ねる。
つまり、メジャー団体の構成員へとノシ上がったわけだ。
ところが、2004年、ひさしぶりに石川雄規と闘ったことで何かを思い出したのだろうか、ノアを退団。
翌年、みずからが主宰するこの「バチバチ」を立ち上げる。そしてこの日の興行が7周年記念大会ということになった。
組み合えば二人とも自動的にスイッチが入るのだろう、あれから20年近くの歳月を経ているにもかかわらず、石川と池田はやはり「捨てられた子犬たち」に戻る。その飢え、なにクソと噛み付く気持ちが発揮される。
ここは田舎町の冬は心底寒い体育館ではない。ラゾーナ川崎は都市型のショッピングモールで、会場であるプラザソルはキャパ250人ほどの空調のきいたきれいな多目的ホール。いろいろなものが様変わりして、石川も池田も髪が薄くなっている。
自分もじつは、開場を待つ間に屋上からアリのように多くの人々が行き交う姿を見下ろしながら、70年代に見た川崎駅西口のいきなり薄汚れた工場がある光景との差異に戸惑っていた。薄汚れ、どこか怒気をはらんだような川崎の光景は、きれいに拭い去られてしまったようだ。

もうひとつ、やはり初期バトラーツのメンバーで、このバチバチに参戦を続けている小野武志について書きたいので「その2」へ続く。