山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

自分の映画歴語りその8/『極星』


1984年3月で大学を卒業し、東京に戻った。
就職活動はいっさいしなかった。映画をつくり、上映することに忙殺されていたということもあったけれど、そもそも映画を仕事としてやりたいと思っていても、就職すべき映画会社がなかったということもある。
じつは『ポプラ並木の憂鬱』のときの旗ふり役であったY先輩は、日活に就職した。そのYさんから、現場の惨状を聞いていて「こりゃダメだ」と判断していたこともあった。
そこで、とりあえずぴあ(PFF)で映写技師をしたり、イメージフォーラムの助手をしたり、山本政志から声をかけられて『ロビンソンの庭』の脚本を書いたり、母親(小学校教師)から声をかけられて学童クラブの指導員バイトをしたりしていたのだった。
そんなことをしながらも、とにかくカメラは回し続けた。
『世界はがらくたの中に横たわり』1984や『泥のなかで生まれた』1986のような、自分にカメラを向けた作品もあったわけだけれど、では今でいう「セルフドキュメンタリー」を指向し始めたのかと問われれば、それは違うと思う。
あくまでも広い意味での、そしてばくぜんとした「映画」だった。
できれば、それまでにないような映画。そして、自分もおもしろがれ、他人にもおもしろがってもらえるような映画。それがつくりたかった。
やはり、ばくぜんとしてるな。ま、そんなもんでしょ。
どんなにアイマイモコであっても、カメラを回し続けていれば、いずればかたちになるだろう。そんな楽観的な気分もあった。とにかく、自分だけで自腹で撮っていれば、とりあえず締め切り(納品期限)はない。
撮り続けよう。
そうして、1986年の終わり頃にかたちになったのが長編個人映画『極星』だ。最近は言われなくなったけれど、当時は「動物と子どもを使うのはずるい。反則だ」と言われたっけ。
たしかにこの映画、なんの結論めいた出来事に到達しているわけでもないのに、なぜか感動的な気がするのは、子どもや動物、それから自分の父親が亡くなったというネタのせいだろう。ずるいという指摘は当たっていると思う。指摘した人はそこに戦略的な「あざとさ」を感じ取ったわけでしょ。
しかし俺の方にも言い分はある。「戦略なくして何が映画だっ!」と。
カメラを向けること。シャッターを押すこと離すこと。アングルや画角のしかた。そして映像を編集すること。そこに音楽やナレーションをつけること。すべてが戦略以外のなにものでもないじゃないのぉ(←広島弁でお願いします)。

『極星』は幸いなことに、おもしろいと言ってくれる人が多数いた。
だいたい完成した1986年の秋から、映写機を持って、友人宅で見せて回ったのだった。そんななかで、ひょんなことからユーロスペースで上映できることになった。映画館を借りるのでなく、ユーロスペースが主宰での上映だったことに意味があったと思う。
映画館で8ミリ。それも当時のユーロスペースは日本映画はやっていないイメージが強かった(『ゆきゆきて神軍』は1987年の秋のこと)ので、ある意味、8ミリ映画が公然と日本映画の一角を担うことになる先兵としての役割があった。