山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

『ロビンソンの庭』についてさらに思い出す

(オカモトくんのコメントへのレスを書いているうちに長文になってしまったので、こっちに移動)
どちらかというとファンタジー映画のようなものをつくる気持でシナリオを書いたつもりだったのだけれど、自分たちの身の回りの出来事や人々を取り込んでいくと、こうなってしまったのです。街をうろうろして人と出会ったり景色を詳細にながめていたりしたわけだけど、それは東京をまんべんなくうろついたわけではなくて、たかだか高円寺、阿佐ヶ谷、下北沢ぐらいの狭い地域のなかにすべての知り合いが密集していて、その範囲内でしたね。
それでも80年代の表現活動のうごめきが刻印されているとしたら、それはその狭い地域にみんないたということなんでしょう。
その頃のこと。私がいまやっている早稲田大学の授業の前の担当の先生が柳町光男さんだったけれど、柳町さんが「若手の自主映画監督と話をしたい」ということで、新宿で飲んだことがあった。長崎俊一さん、山本政志矢崎仁司さんなど、そして私。しばらく歓談して「じゃ、ゴールデン街に行こか」と柳町さんが言う。「え、ゴールデン街ですか」と暗い声で長崎さん。「なに?みんなゴールデン街に行かないの?じゃ、2次会とかってどこで飲んでいるの?」と不思議そうな柳町さん。みんなコソコソしたけれど、そこで長崎さんが代表発言。「つぼ八とかです」。
「だめじゃない、そんなとこで飲んじゃ。やっぱりゴールデン街で飲まないと、映画監督は」と柳町さん。
はーん、とそのなかで一番若かった私は思った。ここに世代の亀裂がちょいとあるな。
われわれの方をひっくるめてパンク(を経験した)世代というのは無理がある。そうでなく、柳町さん側を「知識人(前衛)指向がある世代だ」とカテゴライズしたい。
浅川マキさんも「古い世代のジャズミュージシャンはいわゆるいいとこのボンボンばかりよ」というように、先端的な表現行為をやっていくには経済的な余裕が必要だったわけだ。それが、パンクという音楽スタイルとか、まったく同時に出現した8ミリフィルムによる映画づくりという自主製作映画スタイルでは、貧乏人が表現行為に手を染めることにやさしかった。