山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

『うろつきズム論ノート』註釈


ラ・カメラ上映、ご来場いただいた方、ありがとうございました。
かなーり画面酔いさせてしまったようで、申し訳ありませんでした。
さて、作品中のナレーションに関して、註釈めいたものを書いておくべきではないかと思ったので、書き記します。

●「友部正人の歌詞だけれど、明日はもっと凶暴でありますようにって、そう、漠然と思いながら街をうろついていたような気がする」「あー、せつなや、ぽっぽー」

これは友部正人の『乾杯』という歌です。
「乾杯! 取り残されたぼくに 
乾杯! 忘れてしまうしかないその日の終わりに
乾杯! 身もと引き受け人のないぼくの悲しみに 
乾杯! 今度逢った時にはもっと狂暴でありますように」

●「このいま自分がいるリアル世界と、路地のむこうの別の世界を、自在に往来したいという欲望かぁ。
行ったり来たりの自由がしたい、ってやつですね。
どんちゃっちゃどんちゃちゃ」

これは原マスミの『夢の4倍』という歌詞からで、いま調べてみたら引用が微妙に間違っています。
「月は今夜、宇宙をやめちゃうんだよ
そしてこの星へこっそりおりてきて
海で頭を洗って森で着替えをする
夢の4倍 2乗の愉しみ
いったりきたりの自由が自在」

●「自分が自分であることの不快さって、近頃あまり、そういう表現を見たことないような気がするんですけど。
自分が自分であることは不快じゃなくなっているのかな。そうかもしれない。
そうかもしれないけど、俺にとってはやっぱり不快で、たまに吐きそうになったりすることもあるし。
狭い路地をやみくもに、いくつもくぐり抜けることで、そういう不快さを脱ぎ捨てようとしているのかもしれない。
ヘビが古い皮を脱ぎ捨てるように。
そしてぬらぬらとした新品の皮膚で、その皮膚はひりひりと刺激的なものだから、また街へと繰り出していくんだろう。」

元ネタ的には埴谷雄高の言う「自同律の不快」とかサルトルの「嘔吐」とかなんですが、自分じしん読んだだけでさほど深くしみこんでいるわけではないです。
ただ、ナレーションで言っているように「自分が自分であることが不快」という苛立ちを原動力にした表現というのは、最近は見てないような気がするもので。
まあ、簡単に言ってしまえば、自分のなかにあらかじめ組み込まれている物語(=世界を理解するときの基本的な法則みたいなもの)を破壊する欲望みたいなもんでしょうかね。
廃墟について「物語からニュートラルな場所」と以前定義した記憶がありますが、路地も似たようなところがあって、自分という存在の、ぶよぶよとした部分、すっきりと割り切ることができない、しこりになっていて、なにか膿みのようなものがにじみ出しているような部分を受け止めてくれる場所だと思うのです。
語り始めてしまうと長くなるし、しかもそんなふうな比喩の連続にしかならないのですけどね。

次回のラ・カメラ上映は2013年5月23日から26日を予定してます(ちなみに5月18日19日はシネヴィスシネマです)。
なんとか次回こそは『もうすぐ夜がやってくる』を完成したい。で、ずれ込んだからにはさらにシナリオを改訂してブラッシュアップさせたい。でもそうやってハードルを上げてしまうと、さらに困難になるのかもしれない。とほほ。