山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

飯伏vsヨシヒコ@DDT2009.10.25後楽園


プロレスのおもしろさのなかには「ファンタジーをみんなで共有して楽しむ」という要素があるけれど、これなんかはその現時点での究極を見せている。というか、娯楽と実験を両立させる、かなりアヴァンギャルドな試合。
いうまでもなくヨシヒコは人形(ダッチワイフ)だ。それと「闘う」ということは、一人相撲をするということになる。まずは、飯伏がどのような一人相撲の技量と、観客の想像を越えたサプライズを提供してくれるかが、この試合の見どころになる。
ましてや、これは後楽園ホールのメインイベントだ。さらにはタイトルまでかかっている。「失敗してもお遊びってことで許してちょ」というレベルではなかった。「モノと闘う」という表現において、お座敷芸レベルでは許されないものを提供しなければならない。
画像を見ていただきたい。この1フレームを見れば、まるでヨシヒコが飯伏にみごとなパイルドライバーを決めているように見えるだろう。じっさい、アスリートであることを前提とした芸の披露として、この試合は成功したと言えるだろう。この試合を成立させたことで、飯伏はプロレスラーとして「平成のデルフィンたち」を越えたところにあるニュータイプだと言える領域に達したのだと思う。
しかし。
書くのをためらっていたのは、やはり私としては手放しで賞賛できないものも感じたからだ。
これもプロレスである。そのことは認知いたしました。
でも。
余韻がないのよ。
どうして余韻がないか、そのことを考えてみると、ここで重大なことに気づく。
ヨシヒコには「遊び」がないんだよなぁ。
遊び、ブレ、ゆらぎ、あいまいさ。
人間にはそれらがあって、そこから喜怒哀楽や迷いや暴走が生まれるのだけれど、ヨシヒコにはないでしょ、基本的にそれは。
ということは、やはりプロレスのおもしろさ、感動、興奮ってものは、そのあたりから生まれてくるのでしょうね。
しかし話は突然それるけれど、世の中にもし他人の考えを覗き見できる超能力者がいたとして、その人が飯伏vsヨシヒコについて考えている私の脳内を覗き込んだとしたら仰天するかもしれませんよね。
難しい顔をしてウンウン考え事をしているように見えて、そのアタマのなかでは人間と人形の戦いが展開されているのですから。