山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

ゲームを現実にアダプトする快楽


エロ小説を読みながらオナニーするということは、じつは凄いことなんだ、と誰かがむかし書いていた。
眺めているものは紙の上に印刷された文字群で、その白字に黒のシミののたくりのようなものから意味を読み取り、物語やイメージをあたまのなかにつくりだし、そのことで発情する。このときに脳内ではたらくメカニズムは、かなり高度なものであるという。
なるほど。
でも滑稽ですよね。
相原コージの漫画にあったけれど、エロ本見ながらオナニーしつつ、精液の飛ぶところにきちんとティッシュを置いている。これは精液の飛び方の弾道計算をあたまのなかでやっているわけだから、高度なものなのだろう。
そんなふうに持て余し気味の高度な脳ミソを持っているわれわれ人間だけれど、
「ゲームと現実を混同しているんですよ」
などとオバカなことを平気で言う人がいる。テレビコメンテーター。それをマに受けている人々。
整理して簡潔に書こう。
現実にあるさまざまな要素を抽出し、再構成してゲームは製作される。数であれ、形であれ、配列のしくみであれ、これは現実に由来する。
そうして製作されたゲームの世界観(小宇宙)を、ふたたび現実にアダプトしてみて、その齟齬(そご=食い違い)を楽しむのが人間。
画像は神楽坂で見つけたもの。
新宿区が設置しているものだろう、災害時の避難所を示すものだが、どこかのヴァカがいたずらして、こんな状態になっている。
これを見て私は、
塊魂で巻き込みつくした新宿区みたいだな」と思った。
新宿区で塊魂をするなら、まず人間がたくさんいる東口前を出発し、早稲田方面、中野坂上方面、あるいは四谷方向の低層住宅を巻き込んでいく。そうして成長させていってから、ついに都庁やら高層ビル群を巻き込んで終わり、かな。
そんなことをとっさに想像したのだった。
似たようなことは、ゲームをプレイしたあとにしばらく続く。
ジェットセットラジオフューチャー」のあとは、歩道橋やガードレールを見るとそこを滑っていって、その先どこでジャンプするかを自然と考えてしまうクセがついた。
ワンダと巨像」のあとは、何かフサフサしたものがあると「そこは上れそうだな」と思ったり、同じようにツタのような植物が垂直に繁茂していると「屋根まで行けるかな、そのあと水平移動して」などと考えていた。
じっさいにはゲーム内のようなアクションはできない。
しかしゲームによって、そのように想像するきっかけが与えられ。私は日々出くわす現実世界にそれをアダプトして喜んでいる。