山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

大川戸洋介『夢主人』


山形ドキュメンタリー映画祭事務局が発行している雑誌『DOCUMENTARY BOX』の最新号(#26)で、那田尚史さんが「セルフ・ドキュメンタリーの起源と現在」という論文を載せている。その論考の最後の方で、大川戸洋介という作家の『夢主人』が取り上げられていて「ムフフ」と思ってしまった。
大川戸は80年代に8ミリで数多くの日記映画的な作品を生み出し、そのうちのひとつ『恋の姿見』はPFFに入選もしている。90年代に入って作家活動は停滞し、その消息はわずかにたまに『ツヴァング通信』に寄稿されるテレビ評ぐらいになってしまった。今、何をしているのだろう。世俗的な言い方をすれば40歳の引きこもりってことになるのかもしれない。
「おそらく大川戸の作品ビデオを持っているやつなんて、全世界で5人ぐらいだろう」と思って、昨日の授業で『夢主人』を見せた。私が他人に見せることのできる、映画世界のもっとも深い部分。未開の地。暗黒大陸だ。いやそんな形容はどうでもいい。
再見してあらためて「大川戸はすばらしい!」とため息。その魅力はカメラの自在さにある。動きという意味ではなく、カメラは神の視線にもなれば、昆虫の視線にもなる。そんな自在さ。そうだっ!ヴィシュヌ神的なのだ!とまたごく一部の人しかわからないことを叫んだりして。
大西健児も大川戸作品は好きらしく、どこかで「しゃあしゃあと撮っているところが魅力」と書いていた。これも言えている。まったく努力してない魅力だ。自分のまわりにカメラを向けるだけで世界は限りなく祝福されていくような感じ。関根博之や石井秀人の作品にも祝福感があるけれど、彼らは努力を感じさせる。だから修行僧的なのだ。山田勇男ナチュラルだけれど、引用で武装しているところが道ばたのお地蔵さんにとどまっているんだよね。