山崎幹夫の各種センサー

8mmfilmの情報を提供&映像制作ノートとして始まったが、8mmfilmの死去で路上観察ブログになり、現在はイベント告知のみ

『猫夜』を思い出す6


spaceNEO上映は終わったが、このまま断続的に書いていこう。とは言っても今日で『猫夜』は終了のつもり。
さて、この作品で一番苦労したのは編集だった。ほぼ10時間ぶんぐらいのフィルム素材を前にして、とにかく残せないものを抜いていった。「残せないもの」とは、よけいな要素が多いもののこと。できるだけ日常にそくしたシンプルな映像の連なりにしたいと思っていたのだが、やはりカメラを回してみたくなるのは各種の「お出かけ」の時だ。そうするとなぜそこに行ったのか、とか、新しく登場してきた人間はどんな関係なのか、とか、いろいろなことを観客としては読み取ろうとしてしまう。そうすると映画としては味が薄れてきてしまうと思ったからだ。
しかしそうやって削ってみたところで半分の5時間。これで作家としてはいいのだけれど、上映する機会が限られてしまうのはいやだ。そこで『極星』と同じ75分を目指すことにした。
あれこれとやっているうちに見えてきたことがある。つまり、ぐっとくるものがある映像のロールにハサミを入れてしまうと、なぜかその「ぐっときた感じ」が損失してしまうということだ。つまり「いいなー」と思うそのカットだけ取り出しては、力を削いでしまうことになるということ。それほど魅力的ではない(ように見える)カットと、カメラを回した時間経過のラインに沿って、そのままひとまとまりにした方がいい、ということだ。べつにカメラ内編集をしているわけではない。なのに、なぜ編集することが魅力を損ねるのだろう。
編集することは世界を秩序化することだ。編集しない、撮りっぱなしのだらだら映像では世界を表現できない。それは半分正しい。しかし、どうやら劇映画を出発点にして、たとえばヤコペッティのフェイクドキュメンタリーとか、小川紳介の『1000年刻みの日時計』とか、あるいは作品ではないけれど粉川哲夫さんが指摘したように毒入りチョコレート事件でさんざん監視カメラの映像を見せつけられたりして、どうやら私たちは無編集映像からも、何かを読み取れる段階に到達したのではないだろうか。
リョウのパートの後半部分で、リョウがひとり会社のパソコンに何か字を表示させてそれを撮っている。しかしピントがまったく合っていなくて読み取れない。今回、3作通しで見ていただいた鈴木志郎康さんが上映後にそのことを尋ねた。しかし私にもわからないし、リョウは死んでいるので、もはや誰にもわからない。確かにカメラは回って、モニターに字が表示されている。しかしそれを読み取ることはもはや絶対に不可能だ。
(添付画像は『猫夜』のラストショット)